就職活動時の期待と現実とのギャップ?

今日は、日本からダカールに交換留学できている大学生を交えて、夕食をとりました。この大学生たちは、来週日本に帰って大学3年生の夏というポジションから再スタートし、再来年3月末に卒業予定。したがって、当面の大きな課題は、今年の冬〜来年の春に向けた就職活動。そこで、就職活動の参考にいろいろと話を聞きたいということだったので、自分以外の3社会人世帯も交えて、こういう夕食会が開かれたわけです。

このときに出た質問で印象に残っているのが、こちら。

会社に実際に入ってから、就職前に期待していたこととの間でギャップはあったか?

言い回しはすこし違うけど、要はこういうことだった気がする。

結論として、「期待を裏切られたということは感じた記憶は無い」と答えた気がする。なぜならば、そもそも「期待」というのをあまりしていなかったから。もちろん、会社に入る前に「思い描いていた姿」とのギャップはありました。例えば、当時はSEはあまりプログラミングをしないということ、システムテストの労働集約性、などなど。でもいずれにしても「期待」を裏切られたというものではないし、この程度であれば、「まあ実際にやってみないとわからないよね」というレベルの話ではないかと思う。

そもそも「期待」が「裏切られる」というシチュエーションは、言い換えると、「あるモノを貰えると想定していたのに、全く貰えなかった。もしくはもらったモノの水準が想定と大きく異なっていて、ギャップが大きかった」ということなんだと思う。このモノには、給料とか、福利厚生とか、機会とか、スキルとか、そういうものが入る。また、想定されているモノの水準が結構高くないといけない(低ければ、「大きい」ギャップは発生しない)。で、自分は何が貰えることを想定していたかを振り返ると、そこそこの給料、そこそこの福利厚生、システムを作るという機会、というレベル。幸か不幸か、貰えるモノの要求水準はあまり高くなかった、少なくとも入る前は。

あとは、いったん中に入れば、自分が手に入れたいモノの水準が明らかになってくると同時に、その多くは、「自分が成果を出せば、大概は手に入る」も分かってくる。この時点を超えると「モノが貰える」という想定(≒期待)は基本的に消失して、あとはいかにして成果を出すべくがんばるかということに意識を集中せざるを得なくなる。そして、この時点を越えた後のほうが圧倒的に考えることが多くなるから、少なくとも今から振り返ってみると「期待」が存在していたことも(もし仮にあったとしても)忘れてしまう。

だから、就職活動時に関する「期待の持ちよう」というのは、「あまり期待はしないほうが良いし、最終的には自分のがんばりで大概のモノは手に入る」ということだと思う。でもそれとは別に、「がんばれば報われるということがある程度分かる会社のほうがいいかもね」というのはアドバイスとしてあり得るか。

そういえば書いてて思い出しましたが、面接で何度も足を運んだ本社ビルからは、お台場のきれいな夜景が見えるので、「この会社に入ればここからいい景色を眺めながら仕事ができるのか」と思ってみたら、実際は本社ビルでで働くことは無かった。これはちょっと痛いギャップだったなあ。(自分が勤務地をあらかじめ確認しなかったのが悪かっただけなのですが。)