英語が難しいのか、日本語が難しいのか?

昨日書いたとおり、自分はインドで仕事をしているので、日常的に使用される言語は、英語です。


インド人は、英語で(うまいかどうか別にして)言いたいことをものすごい勢いで、しゃべることができます。


中学生のころから英語を習うのは日本と一緒ですが、その後の使用頻度が日本とは比べ物にならない。


大学の授業はほとんど英語だし、中学・高校の授業も学校によっては、すべて英語です。


これは、インドの30以上の州が、それぞれ別々の言語を話すということに起因しています。
ヒンディー語公用語ですが、主に北インド言語で、南インドだとタミル語しかわからない、という人も数多くいます。


また、スタンドで売られている新聞の大半は英語だし、お店に並んでいる本の大半も英語です。


従って、いやでも、英語を使わないといけない環境が身の回りにあるわけで、いきおい、英語での「言いたいことを表現する」スキルは、上達していきます。


そんなインド人と英語で議論をしていると、英語での生活が始めての自分としては、どうしても言いたいことが言えない、日本語だったら、言えるのに、という場面が多く見られます。


これは、自分が英語ができないせいだから、そのうちどうにかするしかない、と思っていました。


しかし、今日、シャワーの中で思ったのですが、「実は、日本語で言えることを英語で言えないのは、英語の能力の問題だけじゃなくて、そもそも日本語で難しく表現しているんじゃないか?」と思ったのです。


冷静に自分の日本語思考を振り返ってみると、確かに、ちょっとわかりづらい、複雑な表現をしていたのかなと、思える節があります。


仕事なので、相手も、同僚もプロだったわけで、ちょっと難しい表現を使っても、わかってくれるという前提で日本語会話を今までしていたという部分があります。


そう考えると、英語の能力を上げることも大事ですが、そもそもの思考レベルで、わかりやすい日本語で思考・伝達する、ということを考えたほうが、より効率的だ、という認識に至りました。


そもそも日本語で思考すること自体が間違いという気もします。ただ、複雑な状況になると、日本語で思考してから、英語で表現する、というプロセスを踏まざるを得ないという英語力の現実を踏まえた上で、いかに成果を出すか、を考えた場合、まずは複雑な状況をシンプルに考えて、それを英語にするという方法もあると思うのです。


日本語でも、複雑なことをよりシンプルに考えるという営みは有意義だと思うので、早速、明日からやってみようと思います。


それでは、今日はこの辺で。